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会見ルーム


  坂井秀至七段に聞く
    医師より石、「心」「技」磨いて上を目指す

   注目の棋士に本音を聞き、その素顔を探る「会見ルーム」。久々10カ月半ぶりの更新。満を持して登場する第9回のゲストは坂井秀至七段(31)。プロになってまだ3年余りなのに、すでに関西棋院の看板棋士の一人である。医師国家試験に合格した直後にプロ入りし、デビュー当時は異色の棋士として話題になった。その後、プロの水に慣れるとともに非凡な実力を発揮。今やタイトルを狙える位置にまで上がってきている。当面は「まずい碁の頻度を下げたい」と碁の内容を重視する一方で、「ちょっとでも上にいってやろうという気持ちは持ち続けたい」と意欲は十分。名門校に進んで難しい受験勉強もこなしながら数々の「アマ囲碁ナンバーワン」の勲章を手にしてきた秀才がプロの勝負の世界で挑むのは、やはり国内、世界のタイトルしかない。
(聞き手は日本経済新聞社文化部編集委員 木村 亮)

 


――小学生時代から強豪として名を馳せていました

 
「少しでも上にいってやろうという気持ちだけは忘れないようにしたい」という坂井秀至七段
 囲碁は小学校1年生の時に父親から手ほどきを受け、3年生ぐらいから強くなりました。当時通っていた佐藤直男先生(関西棋院)の子供囲碁教室には兵庫や大阪の強い子が集まっていて、学年が2つ上の結城さん(結城聡九段)もいました。小学校4年生で兵庫県チャンピオンになりましたが、これは私より強かった結城さんが院生になってアマの大会に出られなくなったためです。このときは全国の小学生で5位でした。

 小5の時にめちゃくちゃ強くなったのを覚えています。大人も含めたアマチュアの兵庫県大会で優勝。史上最年少の11歳で県代表になったことで新聞にも取り上げられ、有名になりました。このため自分では「当然、小学生名人になれる」と思っていたのですが…。全国大会決勝で学年が1つ上の大阪府代表、倉橋さん(倉橋正行九段)に負けて、大変ショックを受けました。この大会は碁を打つ子供にとっては(高校球児の)「甲子園」のような存在でしたから。

 小6では念願の小学生名人になれました。前年の倉橋さんは優勝してすぐに院生になりましたが、私は何となく受験勉強に走りました。大会があった夏休み以降、半年間ほとんど碁石を持たず、翌年、希望校だった灘中学へ進みました。

――中学生では3年連続で中学生名人になっています

 佐藤先生の奥様が亡くなられたため囲碁教室は小6で終わり、中学生になってからはよく、結城さんや倉橋さんと一緒に藤沢秀行先生の主宰する合宿に参加しました。夏休みや冬休みの間に熱海で開かれていたのですが、清成さん(清成哲也九段)が最年長で、依田さん(依田紀基碁聖)、小松さん(小松英樹九段)ら若手の棋士も大勢参加していました。私より年下は高尾さん(高尾紳路八段)ぐらいだったでしょうか。大いに刺激を受け、強くなった時期だと思います。

 高校時代も含めて何度か中学生や高校生の大会で優勝しましたが、自分としてはアマの全国大会で優勝したいと思っていました。ただ、菊池康郎さんらの壁はなかなか厚いものがありました。

――碁を勉強しながら大学受験、医師の国家試験と難関を次々突破してきました

 
医師の道を捨ててプロ入りした際には大いに話題となった
 2年浪人して京都大学医学部に合格しましたが、さすがに高校3年生からの3年間は碁はやりませんでした。しかし、逆に大学時代は中学・高校時代より一生懸命、碁を勉強しました。(藤沢)秀行先生の年2回の合宿のほか、平日に時々開かれる秀行先生の自宅での勉強会にも顔を出しました。医学部は勉強が厳しいといっても、高校時代よりは自由がききました。

 大学には結局、2001年3月に卒業するまで留年1年を含め計7年間在籍しましたが、このうち医師国家試験の勉強に没頭した最後の半年を除いて、結構、碁は打っていました。特に最後の2-3年間は自分でも碁がかなり強くなったと思います。

 日本アマ囲碁最強戦では1996年から6連覇しましたし、2000年6月の世界アマ選手権戦では念願の優勝を果たしました。97年、99年と2回準優勝どまりだったので、何としても優勝したかったのです。このころはアマ日本一になるのはさほど難しいことではなく、世界一が自分の目標になっていました。

――医師の資格を得ながら囲碁のプロ棋士になったことで大変な話題になりました

 大学卒業時の2001年3月に医師国家試験があり、4月に合格通知を受けました。6月からは研修医として京大付属病院に配属されることも決まっていましたが、その2カ月の間に自分の気持ちが変わっていきました。大学時代の後半に自分の碁がかなり強くなったという自覚があり、このまま囲碁を趣味で終わらせてしまうのがもったいないと思い始めたのです。

 そうなればプロしかない。知り合いの棋士に相談したところ、関西棋院の方で検討してもらい、結局、試験碁を打って「飛付五段」という形でその年の9月にプロ棋士になりました。変則的な形になりましたが、このやり方については私の方から何も申し上げたことはありません。

――プロ棋士になって3年余り。率直な感想をお聞かせ下さい

 
第2期世界王座戦に日本代表として出場。初戦でロシアのA・ディナースタイン選手(左)を下す(2004年8月21日)
 それなりの成績ではありますが、やはりプロの厳しさを味わっているというのが実感です。一つ勝つのは大変だが、負けるのは簡単。しょぼいミスですぐに負かされてしまう。油断もスキもあったものではありません。やはり、心・技・体すべてがそろわないといけないと思います。

 自分の場合はどれも改善、改良の余地が大きい。「体」は週4-5回のジョギングの効果で何とかなりそうですが、「心」と「技」はまだまだ。大事な場面になると妙に緊張することもあり、メンタル面でのタフさも身につけないといけないと考えています。

――名人リーグ入り、世界王座戦出場、新人王戦準優勝と活躍が目立ちます。タイトルの期待も膨らみます

 
世界王座戦2回戦では韓国の崔哲瀚八段(左)に中押し負け。ほろ苦い世界デビューとなった(2004年8月23日)
 タイトルについてはあまり現実感覚がありません。むしろ、名人リーグに定着するとか、王座戦本戦やNHK杯で(トーナメントの)ベスト8あるいはベスト16に必ず勝ち残るといった具合に、上位に定着していきたい。勝ち残るのが当たり前のような棋士になりたいと思っています。

 そのためには「まずい碁」の頻度を下げていかないと。今は、うまく打てたと思う碁がある半面、ひどい手を打って負けることも多い。波が大きいわけで、これを何とかするしかない。やはり「心」と「技」を磨くしかないと思います。(昨夏の)世界王座戦では(2回戦で)韓国の崔哲瀚八段に惨敗しましたが、とてもいい経験になったし、わくわくするような舞台でもありました。是非、もう一度出てみたいと思います。

――どんな碁を打っていきたいと考えていますか

 自分の碁風はよく分かりませんが、自分が目標としているのは「どんな展開にも対応できる柔軟性のある碁」です。相手が“押し相撲”だろうと“四つ相撲”だろうと、いかようにも戦える、幅の広い碁を目指したい。

 棋士ではやはり結城九段が目標です。子供時代から同じ囲碁教室に通い、同じ秀行合宿に参加し、同じ関西棋院ということで、どれだけ一緒に研究し、どれだけ打ったか分かりません。今はお互いプロ同士でライバル関係にあるのは確かですが、子供時代から今に至るまで結城九段の方がはっきり少しずつ強かったのは事実です。今が一番、差は縮まっているとは思いますが、やはり私にとっては目標です。

 結城九段のほかにも、横田茂昭九段、瀬戸大樹六段といったところとよく研究会を開いて勉強しています。とにかくいろいろな意味で「少しでも上にいってやろう」という気持ちだけは忘れないようにしたいと思っています。

 



 
坂井 秀至(さかい・ひでゆき)七段
 1973年4月23日、兵庫県生まれ。佐藤直男九段門下。2001年9月飛付五段。2005年1月七段。第47期関西棋院第一位決定戦優勝、第29期新人王戦準優勝。名人戦リーグ在籍1期。


 
[2005年02月08日 掲載]

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