< 第30期名人戦挑戦者決定リーグ第14局 >
●坂井秀至 七段 対 ○依田紀基 碁聖
1~14手
今期の一、二を争う好カードだ。この日がくるのを記者は20年も前から待っていた。
二人の対局を初めて見たのは、藤沢秀行名誉棋聖が主宰する合宿でだった。中学1年の坂井はプロ低段(四段以下)の資格を特別に許され、名人戦リーグに入っていた依田六段に、先番2目半コミ出しで立ち向かった。まったく歯が立たない。コミなしの先で打つ自由早碁でも、手合違いのように負かされ続けた。
しかしいま、立場は同じになり、互先で打てるのだ。坂井も胸を熱くしてこの日を待っていたに違いない。
もう一人、待ちのぞんでいたのが、両者の第二の師というべき藤沢だ。4年前のプロ転向に際して、坂井のようにまとまった碁では伸びないのではないかと、疑問の声が出たとき、「碁の分からんやつが何をいうか。そんなものではないぞ」と坂井の肩を持ったのが秀行先生だった。記念すべき両プロの公式戦初手合。解説兼講評は藤沢のほかにはいない。
黒5に坂井は15分かけた。7の道策流から9と広げる構図を念入りに考えたのだろう。
依田は白10のカカリに11分、12のカカリに23分、14の引きに30分と、いつになく慎重。坂井を強敵と意識したか。この14から午後の部である。
不思議なことに気がついた。午前中の依田はうっすらと無精ひげを生やしていたのに、さっぱりとして服装も変わっている。昼休みにすぐ近くの自宅に戻って、ひと風呂浴び、長い戦いに備えたのだ。
Figure 2 (14-33)
ひと風呂浴びてすっきりした依田、白14と引いた。上辺と右辺に黒の援軍がある場合の常識らしい。ここまで二日制の挑戦手合のように慎重だったのに、16は初めてのノータイム。藤沢解説者が初めて首をかしげた一手である。
「微妙なところだが、参考図の白1も考えてよかったのではないか。黒2なら白3、5とナダれる。黒6に白7、9がなかなかの構えだ。黒2で3にブツカれば、白2とオサえ、黒aのトビに白bとトブ要領。どちらも実戦よりわずかにまさると思う」 藤沢宅での解説には本因坊戦の挑戦が有力な高尾紳路八段が同席した。高尾いわく、「気がつかなかったけれど、図は有力です。先生の講評はいつも勉強になります」。
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三度のがんとC型肝炎を克服した藤沢はもうすぐ80歳。「なかなかお呼びがかからない」といいながら、毎日の棋譜研究に、5月に開かれる書の個展準備にと元気いっぱいだ。
「白22までは黒に不満がない。もう一つ分からないのが白24。ここがそんなに急ぐのかね。黒25と制してはありがたい。白24では25にノビるべきでしょ。続いて黒Aには白Bのコスミ」
白24と手をかけても黒27から迫る調子がいい。黒33とトンで、坂井堂々の陣。位負けもしていない。
Figure 3 33~66手
藤沢の主宰する合宿の話をもうすこし。
秀行先生の講評をたっぷり聞いたあと、夜の9時から自由時間だが、すぐ休む者はいない。ほとんどが一手10秒の超早碁を戦う。記者の記憶に残っているのは依田-坂井戦だ。先の手合で負かされても負かされても、坂井少年は依田に挑み、気がついたら朝になっていたこともしばしば。2日くらいの徹夜はなんともない。みんな若かったのである。
今期リーグのメンバーで一度でも合宿に参加したことがあるのは、山下敬吾をのぞく全員。藤沢合宿の果たした役割がいかに大きかったか、お分かりいただけるだろう。
白40とツメられ、坂井はどう打っていいか、さっぱり分からなかったという。この質問は藤沢にも届いている。坂井は毎週のように棋譜に疑問や反省を書き込んで藤沢に送り、教えを受ける。
「黒41、43もあるでしょ。これで悪くない」と返答はあっさりしたものだった。
黒43、45とツケノビるのに白48から50と切って主導権争いだ。ここはひるんだ方が負け。白48をためらうと黒51と切って決められるし、切られるのがこわいといって、黒49とハネないわけにもいかない。
黒51と切りを入れ、57から59が形。下辺には構っていられず、白60から66まではほぼ一本道である。
「黒模様を消しながら連絡して、白が大差にいいかと思った」と依田の感想。藤沢解説者は「へえ、そうかね」と不思議そう。
Figure
4
66~73手
しかられた坂井白66と上下がつながった時点での形勢判断が分かれた。依田は白よしと述べ、藤沢は黒よしと主張する。よくあることだ。みんながみんな同じように考えたら、碁はつまらなくなる。 しかし、ここまで坂井の着手にまったく文句をつけなかった解説者が一変した。 「黒67の切りはいいとして、69、71のゆがんだ形はどういうことなんだ。これでは悪くなって当然だ。左下方面に手をつけなくてはいけない」
黒73に「勝ちましたかな」と外野席の声。しかし白に73と急所にこられてはたまらない。仕方のない辛抱だ。
Figure 5 73~106手 依田もおかしい前譜で坂井をしかった藤沢解説者、きょうは「依田もおかしいね」のひとことだった。 白74から左上の地固めに出たのはいいとして、84はノータイム。前からこう打つものと決めていたらしい。しかしこれが依田の大緩着だった。
依田は84を敗着と言い切った。すかさず黒85、87と味をつけ、89に打ち込んだのが坂井の好判断。白のとがめ方が難しいのだ。たとえば白97と上から全部取ろうとしても、黒Aとハネてあっさり形につかれてしまう。 夕食休憩をはさんで、白90から94の3手に合計58分をかけた。ノータイムの84とは逆に、依田の苦悩を物語る時間の使い方だ。 「黒95、97とツケ引いて、急に景色が変わったのにはおどろいた。何とかいけると思いました」と坂井。 白98、100と20目近い実利に回って、大ヨセに入った。これからが長く、しんどい。
Figure
6 : 106~155手
揺れる大ヨセ坂井「いけてるかなと意識したとたんに甘くなるのは私の悪いくせです。黒7から15なんて、ただ手厚いだけ。黒Aの利きをなくしたため、白30を無条件で打たれたマイナスの方が大きい。このあとは迷ってばかり。黒19は34のツギか42のオサエでしたか」 そこで藤沢解説者。
坂井のもたつきをとらえ、白34、36の切り取りから38のサルスベリの大ヨセに回って、依田は追いついたようである。あるいはかすかにリードを奪ったか。 このあとの解説は、藤沢の指名で同席していた高尾八段にバトンタッチされた。 「依田先生の感想にもありましたが、白46が疑問。右上白55とハイたかった。黒46を譲っても、白Bにサガって半目勝負。坂井さんは自信がないといってました」 大ヨセは揺れ動く。黒55のオサエに回って、こんどは坂井に明るさが見えてきた。 依田は珍しく秒読みに追われる。中盤から残り時間を気にして、記録係にしばしば尋ねていた。坂井を強敵とはっきり意識したのだ。 さて終盤戦。大ヨセから小ヨセに変わっても、優劣の振れはおさまらなかった。
Figure 7 : 155~201手
まだ分からない右上を黒55とオサえて坂井に明るさが見えたのだが、まだもたつきはおさまらない。黒67が「アホみたいなヨセ」だった。藤沢から解説を受けついだ高尾はいう。 「計算に明るい坂井さんでも間違えるのですね。67では黒88、白74と利かし、右上黒70とアテれば、黒の1目半勝ちがはっきりしていました」 逆に白68、70のハネツギがこの局面では先手。黒73と2子を取ったくらいでは明らかなマイナスだ。優劣の針が再度依田に傾いたようである。 いよいよ煮詰まった。両対局者の気がつかなかったヨセがある。
きょうの譜は201手までを示しておいた。このあとすぐ、「あ、そうか」と依田が大声をあげ、記者の眠気は吹っとんだ。何ごとか。「またやったか」「コウダテがなあ」と、ぼやきは延々と続く。読者はこの意味がお分かりだろうか。じつは白100が敗着だった。
1~224手
坂井急浮上
【黒半目勝ち】224手完
依田がなげくのも無理はなかった。先手で決めた白200(5の九)が敗着になったのだから。
「そうすると私も黒191(12の十五)や197(4の七)の先手1目を打ってはいけなかったんだな。コウダテに残しておかないと」と坂井。 変な勝ち方だったが、勝ちは勝ち。依田を破ってトップ戦線に躍り出たのだから大殊勲だ。4月の坂井は手あき。小林-依田戦を高みの見物である。
(春秋子)
2005年04月12日
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